1.八王子城
@場所
2006年日本百名城に選ばれた。しかし知名度は低い。八王子城は元八王子三丁目から下恩方町にまたがる山(深沢山)に築かれた。戦国時代最後の大規模(最大級)な山城であり、敵方からも「名城」と言われた山城である。かつ、激戦の末に落城した城である。
◆前田利家が八王子城で討ち死にした家臣の親に宛てた書状や榊原康政が加藤清正に宛てた書状(写し)に「名城」あるいは「堅城」と評価した文言が見える。利家は苦戦した言い訳として「名城」と評価しているように思われるが、一般に氏照の八王子城は「名城」と評価されていたと考えられる
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東南上空から見た八王子城の遺構復元図
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左手「上の山」から太鼓曲輪を経て八王子城へ続く

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A防衛線の規模
城の規模を示す防衛線(総構え)は、少なく見て11`、500fあり、小田原本城の12`と、ほぼ肩を並べる最大級の城である。
◆高尾北山稜、小田野城あたりまで含め、20`、700fと広くみる研究家もいる。
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B八王子城主要部
B-1 主要部
八王子城の主要部は深沢山を中心として東の城下谷に展開される根小屋地区と山麓一帯に構築された現代風に言う政庁としての居館部、山腹や山頂に構えた要害の曲輪群及び深沢山北側の搦め手の防衛機構と張り巡らされたそれらを繋ぐ道である。
これら八王子城を構成している城郭機構は城下谷(中宿)と深沢山を挟む南側の御霊谷、北側の案下谷の防衛拠点によって強固な大城郭を形成している。
◆国指定史跡の城の種別は「独立的多核複郭城砦」という。
B-2 上の山
高尾山系の山々から東に伸びる丘陵先端の一つに位置する。
天正10年頃織田信長の安土城に倣い八王子城を改修整備し、大手口の位置を案下谷から太鼓曲輪尾根の南側、御霊谷(ごれいや)側に変更し、上の山を大手道(上道)の起点とした。上道は御霊谷側から入り、上の山を登り、北の城下谷(しろしただに:中宿)側、上の山の腰部を御主殿跡へ向かう基準幅8b、長さ約1.5`の当時の戦国期最大規模の大手道である。
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根小屋地区から見る八王子城

手前は上の山、後方が八王子城
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搦め手の案下谷にある松竹稲荷神社
B-4 搦め手の案下谷(あんげだに)
深沢山の北側に広い谷があり「案下谷」といい浄福寺城とその山麓、下恩方の浄福寺(文永年間1264〜1274)や上恩方の興慶寺(1297創建の白沢庵を継承)など室町期創建の寺院が点在するのを見ても比較的古い時代から開けていたと考えられる。
◆初期の八王子城は北側の案下谷側に大手口が構えられていた事が考えられ、後年八王子城を大改修する時期に大手口が現在の案下谷から城下谷(中宿)側に変更された可能性が考えられる。
◆後期の八王子城主要部はそれぞれ防衛機構を構えた案下谷と御霊谷に挟まれた構造となっている。

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B-3 御霊谷地区(ごれいやちく)
霊園前の一つ手前のバス停、「宮ノ前」で下車、少し後戻りした信号を西方向へ入った谷筋が「御霊谷」で鎌倉期から開けていたと考えられている(袋谷の形をしており、守りやすく攻めにくい土地)
八王子城の史跡指定は御霊谷の北尾根稜線(太鼓曲輪の尾根)から北側が指定範囲となっているがこの谷筋、尾根の南斜面や山麓にも城の防衛機構が設けられており、この谷は八王子城の南の外郭を構成して重要地域となっていた。

御霊明神
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C築城者
北条氏照(1540〜1590 誕生年は1541,1542説あり)
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氏照とオオタカ
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御主殿入り口虎口から曳き橋を望む

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D築城動機
北条氏照の居城である滝山城は丘城で、敵に攻められ易く守りにくかった。永禄12年(1569)武田信玄に三の丸まで攻められ落城寸前になった。氏照は「攻めにくく守りやすい城」を目指し、深沢山に八王子城を築城した。築城にあたっては以下の要素が含まれていたと考えられる。
◆戦術の進歩、鉄砲戦時代に備え、石垣を多用する城作り(尾根を使った石垣の長城)
◆周辺国との政治状況の変化(特に甲斐に対し)、和田峠越えの案下道と小仏峠越えの裏高尾道の両方に備えた城作り
◆支城網の監視塔として後北条支配の関東平野の大部分を見渡せる城作り |
E築城時期と縄張りの特色
築城は天正5年の秋〜6年頃から始まり、約8年かけほぼ完成し、天正14年〜15年3月頃までに滝山城から移転したとされるのが通説である。
城郭の特色としては、険しい深沢山中心に、自然の地形を巧みに利用すると共に、石垣を多用していることである。又、築城の途中の天正8年、氏照の使者として間宮若狭守が織田信長を表敬訪問した際、築城後まもない安土城を見学し、その報告に基づいて大改修が行われた。
その一つに、御霊谷から上の山へ入り、続く丘陵の北側の腰を通り、御主殿虎口の曳き橋まで、戦国時代最大と思われる基準幅8b、長さ約1.5`の一般に大手道と称される道を造ったことである。私どもは、従来の「下道」に対して「上道」と仮称している。
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虎口、御主殿広場入り口の冠木門
◆安土城の大手道は見せる道として大変立派ではあるが、道幅は、6.5b(側溝を省く)、長さ260b(安土城内部)である。
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中の曲輪 八王子神社
(写真は建て替え前のもの)
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F八王子(市)の地名の由来の城
平安時代、華厳菩薩妙行和尚が牛頭天王のお告げを受けて牛頭天王と八人の王子を八王子権現社として深沢山に祀った。 この八王子権現社を氏照が城の守護神として崇め、城の名前を八王子城としたことから、地名として定着したと云われている。

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| 2.北条氏照関係略年表 |
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3.北条氏照とオオタカ
@鷹狩りを好んだ戦国の武将として信長や家康がよく知られているが、氏照もその一人であったようだ。
氏照23歳の時、永禄5年(1562)4月14日には支配下としたばかりの旧三田氏領一原(いつはら:奥多摩町日原)の原島右京亮(うきょうのすけ)に対して5月1日・2日の内にハイタカを持参するよう命じ、又新たなハイタカの巣づくりをも確保するよう命じている。
A外交上手な氏照は天正7年に信長に鷹3羽を送り好(よしみ)を通じ、翌8年には京都本能寺にあった信長に対し、本格的外交を始めて兄氏政の使者と共に重臣の間宮若狭守綱信を使者にたて鷹を始め大量の土産物を持たせている。
若狭守は帰途完成なって間もない安土城に招かれ、このときの印象を後の八王子城の大改修に築城奉行の一人として活かすこととなる。
Bこのときの鷹は鶴、真鶴、コウノトリ、を専門に捕獲する鷹と乱取りという何でも捕らえる鷹あわせて13羽である。
C信長の在所まで鷹を届けるのには鷹の餌となる新鮮な肉を必要とする。そのため職業として鷹の餌を捕る「餌指(えさし)」が同行していたと考えられる。
D「徳川家康へも鷹を送る」
天正7年正月、徳川家康とも外交を始めて、太刀一腰、馬一疋、蒼鷹一鳥屋と書状を送り、好を通じており、その後家康とは甲斐を争うが天正10年には同盟、北条氏直の夫人に家康の次女、督姫が嫁入りする。
E当時は体の大きい秋田の鷹が珍重されており、武将お抱えの鷹匠は競って秋田に鷹を求めたようである。この時は、犬を連れて行き帰路その犬の肉を与えながら鷹を連れ帰ったと伝わる。
F鷹狩りの歴史は、約4000年前に中央アジアに起こり、モンゴル、シベリア東部、中国、インドなどで発達した。日本では、仁徳天皇の時代(355年)に百済から伝えられたといわれる。(日本書紀)群馬県で、この時代のものと推定される鷹匠埴輪が出土している。

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御主殿広場での諏訪流放鷹術の実演
参加代表者による基本姿勢
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武蔵名勝図会 八王子城攻撃の絵

御主殿の滝

武蔵名勝図会 八王子城本丸跡荒廃図
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4.落城
天正17年(1589)11.25 天下統一を目指した豊臣秀吉は従わなかった北条氏に対し、領地争いを理由に宣戦布告した。
天正18年(1590)2.3 秀吉は21万余の軍勢を率いて東進。秀吉の本体は小田原城を囲み、一方の前田利家・上杉景勝・真田昌幸の別働隊は北関東の北条の支城を次々と陥落させた。
天正18年(1590)旧暦6月23日(新暦7月中旬〜8月上旬)早暁(2〜3時頃)、圧倒的な軍勢である前田利家軍、上杉景勝軍を主力とする秀吉軍の猛攻を受け、壮絶な戦いの末4〜5刻で落城、北条方の戦死者(討ち死に)は1300余人と伝えられている。
◆主戦派氏照の居城であり、小田原攻めの最後の段階でもあり、八王子城については「徹底的に屠れ」との秀吉からの命令があったと思われる。
◆攻撃軍(寄せて)の戦死者の記録は、定かではない。しかし、短時間の山城での激戦ではあったが前田利家がその馬廻り衆多数を討ち死にさせるほどの激戦であった(馬廻り衆:旗本〜現在では近衛兵にあたる)
◆攻撃軍の数は、1.5万〜5万までと諸説があるが、3万位と見てもよいのではないだろうか。(上杉軍1万、前田軍1万、北条降伏組1万〜松井田城方・大導寺軍等)鉢形城攻めは5万との記録がある。
◆迎え撃つ北条方の数も定かではないが、3千〜5千と推測される。落城の前年、城主氏照が精鋭部隊を引き連れ、小田原本城へ詰めたため、八王子城を守る部隊は、留守を預かる城代横地監物はじめ家臣のもと、老兵、農兵、職人衆(番匠ほか)、修験者、人質などで構成されていた。
◆前田利家が八王子城で討ち死にした家臣の親に宛てた書状や榊原康政が加藤清正に宛てた書状(写し)に「名城」あるいは堅城と評価した文言が見える。利家は苦戦した言い訳として「名城」と評価しているように思われるが、一般に氏照の八王子城は「名城」と評価されていたと考えられる
◆北条氏の最大の支城である八王子城の落城は、当主、北条氏直に小田原城開城(7月5日降伏)を決断させる大きな要因のひとつになった。
◆一般に教科書などでは、豊臣秀吉が笠懸山に築いた「石垣山城」(一夜城)の築城とされている。
◆世に言う「小田原評定」

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5.落城後
天正18年(1590)6.23 八王子城落城後、秀吉により関東へ移封となった徳川家康が八王子城を管理下とした。旧武田家家臣小人頭9名・小人250余人を八王子城下に配置し、直轄領とした。(現在も旧武田家家臣の子孫15代目・16代目の方々が城下に住んでおられます)その後2回にわたって人数を倍増させ、これが「八王子千人同心」である。
徳川時代は天領となり「御林山」として、また、明治以後は太平洋戦争まで「御料林」として人々の立ち入りを禁じていた。
昭和26年滝山城と共に国史跡に指定される。さらに平成18年日本百名城に指定される。
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御主殿広場から入り口の冠木門を望む


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6.発掘と遺物からみられる戦国大名の暮らし
八王子城の発掘調査は昭和33年に都立武蔵野郷土館が奥田直栄氏の指導で学習院大学史学部学生の協力により「中の曲輪」の一部に調査トレンチを入れている他は実施されていなかった。
平成2年、落城・新しい八王子街成立400年を契機に、虎口、御主殿跡を中心に、発掘調査と整備が行われた。御主殿跡から中国製の磁器など大量の遺物(約7万点)が発掘された。
*2棟の大型建物の礎石の確認
*ベネチア製レースガラス器の破片の出土
出土された高価な中国産(明・南宋・元)の陶磁器・調度品などから、茶の湯・聞香・活花など優雅な生活を楽しんだとおもわれる。また、優れた彫金技術をもっていたことも伺い知れる。

御主殿広場の西端付近の彼岸花 |
7.宗関寺の歴史
@宗関時の山号と由来
旧境内地は中宿の西方華厳谷の右手奥にあって江戸時代10石の朱印を受け「朝遊山宗関寺」(氏照が城内に設けた氏照の禅室朝遊軒と氏照の法号宗関居士から命名)と号した卜山随翁舜悦の起こした氏照公の菩提寺である。
A宗関寺の創建史
宗関寺は、延喜17年(917)僧妙行(華厳菩薩)によって牛頭山寺蓮華院として創建された。(寺伝)開基は北条氏照,開山はト山随翁舜悦。文明年間(1469〜1487)に堂宇が廃頽していたのを北条氏照が永禄7年(1564)に中山勘解由に命じ堂宇を新築、永禄9年(1566)3月5日に心源院から卜山随翁舜悦和尚を新築なった「牛頭山宗関寺」の第一世に請じ、同3月15日、盛大に普山式をあげ曹洞宗として再建した。
B宗関寺の再出発(再建)
天正18年(1590)6月23日に落城当時の兵火により消失、文禄元年(1592)心源院六世の職にあった卜山舜悦和尚によって氏照公追善のため「朝遊山宗関寺」として再建された。
延宝年間(1672〜1680)にも火災にあい伽藍を消失し、元禄2年(1689)に氏照公百回忌の追福にあたって、改めて新築された。
C明治期の移転
明治24年に至り頽破したので翌25年12月に現在地より西北の旧宗関寺所在地から現在地に復興移築した。
D宗関寺・古文書等
曹洞宗恩方心源院末、本尊釈迦如来、「八王子」の地名の起源につながる「華厳菩薩記」、天正18年の合戦で手傷を負った中山勘解由にうちかけたとされる血染め跡の残る「赤地金襴の袈裟」、開山の真筆数点の古文書ほかを襲蔵する。
本堂間口6間、奥行5間。 庫裡間口3間、奥行き5間。
鐘楼1間半、奥行1間半。(八王子市史等)
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武蔵名勝図会 宗関寺、中央左手が観音堂

現在の宗関寺入り口

宗関寺の本堂

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氏照公墓所

上図は1820年頃に描かれたもので、現在の
墓の位置と形状が異なっています。

現在の観音堂から見た八王子城(深沢山)

春の観音堂(現在地)

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8.氏照公墓所
華厳谷戸北側の尾根上約100b(旧宗関寺墓所)にある。元禄2年(1689)に水戸徳川家の家臣となった氏照旧臣の子孫を中心に営まれた北条氏照公100回忌追善法要の折、氏照公家臣の墓と共に再建された。(墓碑裏面の刻彫 元禄二己巳年天七月二日北条氏照公、現住信庵児海音再造)
高さ約2b、笠塔婆型をした氏照公の墓碑を挟んで右の自然石に「本室宗無居士」と刻まれた中山家範(武蔵名勝図会は狩野一庵とするが誤りで本室宗無居士は中山勘解由左衛門家範)、左に無名の五輪の塔(新編武蔵風土記稿は狩野一庵とするが武蔵名勝図会は金子家重と推定している。)この左、自然石に「中山道軒居士」と刻む水戸家三代目付家老中山備前守信治(中山家範次男信吉の四男、在職1651〜1681年の30年間、1661年に光圀二代目藩主に就任以来、20年間と光圀に最も長く仕える)の墓がある。(都指定文化財)
元禄2年(1689)時の水戸家家老は5代目中山備前守信成(家老在職期間は1683〜1703の20年間、光圀は元禄3年1690に隠居、翌年西山荘に移る)である。
◆「青霄院殿透岳宗関大居士」は氏照公戒名、天正十八年庚寅七月十一日は小田原での没年。
*小田原市栄町二丁目、当時の菩提寺伝心庵の跡地にも兄氏政の墓と共に並んで墓所がある。
◆「或云う、北条氏照の首を北条家落魄の人梟首の後その首を持ち来たりて、由木村永林寺の現住照鑑禅師を頼みて葬せんことを乞う。この師も、当寺は氏照公義父源衛門尉定久開基にて、氏照は大檀越のことなれば、引導焼香し法号を追諡、透岳宗関大居士、八王子城山の麓に葬したりと。則ちその葬むりたる地はここゆえに、文禄元年(1592)に至りて舜悦卜山和尚この宗関寺を開基し、碑石をも建てるか。破壊によって元禄二年(1689)再建せしとぞ。首をこの地に埋葬せしことは宗関寺に伝えなけれども、永林寺にそのことを記せるものあれば、そのことをここに載せたり(文政3年・1820・武蔵名勝図会)
◆水戸家三代目付家老、中山備前守信治の致仕名を「道軒」、二代目付家老兄信正は「風軒」(飯能市郷土館)
獅飜院殿本室宗無大居士
天正18年6月23日 中山勘解由家範
無相院殿可山宗印大居士
寛永11年1月22日 中山勘解由照守
源盛院殿道立心圓大居士
寛永19年1月6日 中山備前守信吉
◆観音堂
旧宗関寺境内より一町ばかり南の方にて大門道の上に在った。登り一町ほど(武蔵名勝図会)、現氏照公墓所地。 本尊…聖観音・恵心作、氏照公室お豊の方(大石系図では比佐)持佛、現在は宗関寺北側の丘陵中腹に移転。
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